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アンリ・デュティユ逝去(1916?2013)

2013年 5月24日付

Dutilleux composing Le temps l'horloge (c Thomas Hammje)

作曲家アンリ・デュティユの死について

アンリ・デュティユの死をもって、世界の音楽界はひとりの偉大な人物を失いました。フランスの作曲家アンリ・デュティユは1916年アンジェに生まれ、モーリス・ラヴェル、アルベール・ルーセル、クロード・ドビュッシーらの伝統を基礎として、独創的な調感覚と心象風景の輝きによる、独自の音楽言語を創出しました。20世紀後半に広まった音楽的流行には常に通じていながらも、彼は自身の個人的なやり方を模索し、多くの聴衆に支えられた高い人気が彼の才能を立証しました。デュティユは、より本質的な要素に集中することに主眼を置いていたのです。そして妻であるピアニストのジュヌヴィエーヴ・ジョワと共に何十年もの長く充実した音楽生活を送り、オーケストラ作品、歌曲、バレエ音楽、室内楽を含む、極上の作品群を遺しました。

音楽一家に生まれたデュティユは、戦前のパリにおける多様な音楽界を直に体験しました。アンドレ・ジョリヴェ、ダリウス・ミヨー、フランシス・プーランクといった同業者らとの親密な交流があったにも関わらず、彼は決して「6人組」や「若きフランス」のメンバーにはなりませんでした。この若き作曲家は自身を、独自の道を探さなければならない芸術家だと既に理解していたのです。

1938年、名高い「ローマ賞」受賞によって、国際的成功への展望はその最初の兆しを見せましたが、運命は立ち塞がりました。デュティユが奨学金とイタリアでの滞在を得た数カ月後、第二次世界大戦の勃発によってこの若き作曲家は帰国を余儀なくされ、短い軍役の後、ピアニスト、編曲家、音楽教師として生計を立てる生活が続きました。そして1942年、彼はパリのオペラ座で非常勤の合唱ディレクターに任命されます。戦後、彼を取り巻く環境は好転していきました。ラジオ・フランスでの仕事の後、彼はエコール・ノルマル音楽院、そしてパリ国立高等音楽院の作曲の教授に任命されました。

1951年と59年に作曲した2つの交響曲によって、ついに彼は国際的な評価を得ました。デュティユは、音楽的主題を始めから全て提示するのではなく、音楽の進展に伴って、その要素を次第に出現させるという構造原理を一貫して用いた最初の作曲家でした。「私が目指しているのは、個々の作品が、有機的な実体として生じるのを可能にすることです」。デュティユは、フランスの古楽やフランドル楽派の大家による繊細なポリフォニー音楽に魅了されていました。またバッハのコラール作品を人生を通じて常に傍におき、ベートーヴェン後期の作品を心の拠り所としていました。これら先人たちの手本は、デュティユが音の素材を展開し変形し織り合わせたもの、つまり迷宮のような構造原理である「反射する音楽的遊戯」という変容、のなかに、細部に至るまでの正確さでそれらの痕跡を残しています。

セリー技法の痕跡をデュティユの作品のなかに見出すことはできますが、彼は新ウィーン楽派の流儀に対してある程度の懐疑を保っていました。「思うに、私はセリーの作曲家ではありません」。彼は、こうはっきりと表明しています。「私が拒絶するものは、この時代の教義主義と権威信仰なのです」。彼は独自のハーモニーの扱い方を、古典的な和声理論と、様式性、多調性、無調性との融合である「自由な(無)調性の連続体」と定義していました。デュティユはどんなときも、理論に内在する限界に気づいていました。「どのようにして作品は生じるのでしょうか? それは比類ない神秘です」。

オーケストラ作品の成功は、国際的に活躍する有名演奏家たちを惹きつけました。1970年にデュティユは、後に生涯にわたる友情を築くムスティスラフ・ロストロポーヴィチに、チェロ協奏曲《遙かなる遠い世界》を献呈しました。アイザック・スターンはヴァイオリン協奏曲《夢の樹》(1983-1985)を委嘱し、以降、アンネ=ゾフィー・ムター、ドーン・アップショウ、サイモン・ラトル、ルネ・フレミングら著名なソロイストのための委嘱作品のシリーズは今世紀に至るまで続きました。

文学はデュティユにとって偉大な魅力であり、数々の作家たちが彼に霊感をもたらしました。デュティユの神話的かつ有機的な音素材の扱いが、決まってマルセル・プルーストの文学における、変容を経て繰り返される記憶という観念と似かよっていることは、単なる偶然ではありません。最期の数年間、デュティユはシャルル・ボードレールの詩に戻りました。文学と音楽との選択的な親和性は、2009年の間に唯一作曲されたソプラノとオーケストラのための《時の大時計》(2006-2009)における表現にみることができます。

デュティユは絵画にも同様に惹きつけられ、自身を「色の作曲家」と呼びました。《音色、空間、運動》は、ヴァン・ゴッホの画期的な絵画『星月夜』に描かれた夢見るような色彩の星空を、オーケストラの色彩による表情豊かな陰影へと置き換える、注目に値する試みでした。デュティユは、ゴッホの作品だけでなく、その分裂的性格にも心惹かれており、2003年に作曲されたソプラノとオーケストラのための《コレスポンダンス》のテキストの中には、文学作品の引用や私信からの走句とならんで、ゴッホの手記からの抜粋を見つけることができます。

デュティユは明白な政治的主張をもった芸術家に数えられないかもしれませんが、それでもなお彼は、同時代に影を投げかけた歴史的な出来事に対して強い関心を保ち続けた作曲家でした。彼はボストン交響楽団のために、第二次世界大戦終結から50年を記念する《時間の影》(1997)を作曲しました。第3楽章でオーケストラとともに3人の子供の声を配置したこの作品は、アンネ・フランクの追憶に捧げられています。

生涯を通じて自身への厳しい批評を保ち続けたデュティユは、初期の作品群を撤回した上で作品番号を改め、妻ジュヌヴィエーヴに捧げられた《ピアノ・ソナタ》(1946/48)を作品1番としました。彼の高い芸術的基準は、それぞれの作品が唯一無二の音楽世界を顕すことを要求しました。デュティユは、未完の状態または低い水準のまま世に出た作品が存在しないことを保証することに心血を注いだ完璧主義者でした。この、可能な限り最高の品質とは、彼が私たち出版社にもまた要求したものであり、そして我々がデュティユのために常に果たそうと試みた、暗黙の掟でした。すばらしく神経質で、洗練された魅力的なパートナーであった彼との仕事を経験できたことは、私たち全てにとって大きな名誉でした。彼はすべての同僚たちから称賛と尊敬を得ていて、どんなときも彼との仕事は大きな喜びでした。アンリ・デュティユは音楽の世界に、誰も埋めることのできない空白を残していきました。

5月22日朝、パリで、デュティユは97歳で亡くなりました。


Schott Music | Henri Dutilleux (1916?2013) より翻訳)