ジェルジ・リゲティ逝去
6月12日の朝、ハンガリー生まれのオーストリアの作曲家ジェルジ・リゲティが闘病の末ウィーンで亡くなりました。83歳でした。私たちは20世紀で最も偉大な作曲家の一人を失いました。
リゲティは音楽の形式や表現に対して果敢に挑戦し、現代音楽に大いなる先見性を持った作曲家でした。リゲティの豊かな創作は、その音楽的な質と際だった個性によって特別の地位を占めています。彼は、生涯にわたって音楽上の流行や技法からは一貫して距離をおいていました。彼の音楽の特色は、新鮮で型破りなアイデアにあり、またいかなる教条主義とも無縁であり、あらゆる作品に彼の先進的な面をみることができます。他の作曲家や音楽の専門家たちから賞賛され、絶大な影響力を持った彼の音楽ですが、感覚的なわかりやすさは、世界中の多くの聴衆を魅了しました。
1961年に作曲されたオーケストラのための《アトモスフェール》によって、彼の名はまたたく間に世間に知られることになりました。この作品でリゲティは、旋律、ハーモニー、リズムといった伝統的な要素をほとんど放棄し、絶えず変動するテクスチュアとしての音のあつかいに集中します。「ミクロポリフォニー」と名づけられたこの技法について、彼はかつてこう説明しています。「ミクロポリフォニーは、たくさんの声部が密集して組織されているため、ポリフォニックな技法にもかかわらずそれぞれの声部は聴取不可能となり、結果として生じた混じり合った声部のハーモニーが形式として機能するわけです。」しかしながら、彼にとっては技法それ自体が到達点ではありませんでした。リゲティはミクロポリフォニーの技法にとどまることなく、常に新しい道を模索していたのです。
リゲティは父親と兄弟を強制収容所で亡くしました。彼は1941年にハンガリー軍での強制労働から逃れたのち、1956年に勃発したハンガリー動乱の際にオーストリアに亡命しました。こうした体験に強い影響を受けたリゲティは、あらゆる独裁制度や知性への抑圧に対して強い反感を示すようになりました。「私は、芸術に内包されるあらゆるイデオロギーの敵対者です。全体主義は、不協和音を嫌うのです。」生物化学、カオス解析、フラクタル幾何?? リゲティはもともと物理学を志していましたが、新しい作曲原理を 自然界の中に見いだしました。国際的名声をもつ教師として何年ものあいだ、自立、オリジナリティー、そして妥協のない内省を彼は生徒たちに説きました。「伝統はただ一つしかありません。我々の音楽がその伝統に対峙できるかどうかです。」
1950年代ケルンWDRの電子音楽スタジオでの作曲と1960年代ミクロポリフォニーの発展に集中した作曲活動の後、1970年代に入り、リゲティの作曲スタイルはよりシンプルに、より明快なものへと変化していきました。あたかもそれまでの彼の音楽上の傾向を撤回しようとするかのように、調性にもとづく音を使うようになりました。「もはや私は現代的であるとか時代遅れとなどといわれるような規則には耳を傾けない。」リゲティ唯一の一晩ものの舞台作品である『ル・グラン・マカーブル』は不条理演劇にインスピレーションを受け作曲され、オペレッタのようなウィットとブラック・ユーモアに富んでいます。作曲者はこの作品において、より直接的に聴衆と対話しようと試みたのです。「ステージにおける演技や音楽は、危険で、奇想天外で、すっかり誇張されているべきなのです。」
1980年代、1990年代において、リゲティは音楽的地平を拡大しました。アフリカのドラム・ミュージックの構造的原則を自らの音楽に組み入れたのです。それは、単なるリズムの錯綜が、これまでにない複雑なポリリズム技法へ発展したということです。こうした技法は20世紀末にかかれた最も重要なピアノ作品と位置づけられる《ピアノのための練習曲集》全3巻の基礎となっています。
ジェルジ・リゲティは、長い道のりを旅しました。ルーマニア民族音楽や、同じハンガリーの先達ベラ・バルトークの調性言語に始まり、彼自身の音宇宙へたどる道のりを。そして、このあらゆる世代の作曲家へ良き助言者は、笑いの中に死の恐怖を溶かしこもうとしていたのです。
(http://www.schott-music.com/news/komponistennews/show,3336.htmlより翻訳)