8月7日付ニューヨーク・タイムズにオペラ《松風》の批評掲載
7月にベルリンで上演された細川俊夫のオペラ《松風》の批評が8月7日付ニューヨーク・タイムズに掲載されました。
ニューヨーク・タイムズのウェブサイト
http://www.nytimes.com/2011/08/07/arts/music/matsukaze-opera-by-the-japanese-composer-toshio-hosokawa.html?_r=2&scp=1&sq=hosokawa&st=cse
関連ニュース
https://www.schottjapan.com/news/2011/110329_143355.html
以下はニューヨーク・タイムズに掲載された批評の抄訳です。
とはいえ、最高の芸術家であっても自然の意図を予見できるとは限らない。日本の作曲家、細川俊夫のオペラ《松風》は、砂浜を洗う穏やかな波の音から始まる。その音は、今年1月に東京の海岸で細川が録音したものだ。その2ヶ月後、ブリュッセルで行われる初演に向けて、出演者たちがベルリンに集合した時に、その波は、全く異なった重要性を帯びることになった。
55才の細川はここベルリンのカフェで「私たちはその波や風の音を聞いて、すぐに津波のことを思い起こしました」と静かな口調で語った。「私の音楽では、自然との調和は決定的に重要ですが、自然とその猛威について我々は全く考えていませんでした。」
世阿弥の能にもとづくオペラ《松風》は亡霊となって恋人(彼もまた死んでいる)をひたすらに待ちこがれる松風と村雨の姉妹を描いている。「松風と村雨の運命もまた非常に過酷なものでした。彼女たちは何も知らされることなく愛する人を失ったのです。我々も同じように生きています。明日何が起こるかは誰にもわかりません。自然というものはそのような力があるのです。美しいものも、恐ろしいものも生み出せるのです」と細川は言う。
ブリュッセルの王立モネ劇場から委嘱を受け作曲された《松風》は、先月ベルリン国立歌劇場にやってくるまで、ワルシャワ、ルクセンブルクでも上演された。《松風》は現代オペラとして大成功を収めたと各地で絶賛され、フランクフルト・アルゲマイネ・ツァイトゥングはこのオペラを「忘れがたい総合芸術(unforgettable total work of art)」と、またロンドンのフィナンシャル・タイムズは「強くひきつけられる美しさ(compellingly beautiful)」と称賛した。
オペラは、長く、ミステリアスな一夜に起こった出来事を描く。ハンナ・デュブゲンによるドイツ語のリブレットは、松風と村雨姉妹に一晩の宿を求めた旅の僧の物語を扱っている。不気味な協和音程からなるデュエットでは、僧に対して、姉妹がともに愛し、帰ってくるとの誓いを残して村を去ってしまった行平(ゆきひら)への思いを歌う。待てども帰ってこない行平に苦悩する松風は発狂し、松の木の下に行平の幻影を見る。松風は幻影が現実のものであると妹の村雨を説得し、行平の幻をみとめた二人は大気の中に消えていく。
ベルリンの振付家サシャ・ヴァルツの演出により《松風》はオペラであるのと同時に舞踊作品ともなった。プロダクションでは、ヴァルツ自身のダンス・カンパニーが出演し、彼らは舞台上を跳躍し、旋回し、疾走した。歌手たちもまた踊った。姉妹役を演じたソプラノのバーバラ・ハンニガンとメゾ・ソプラノのシャルロット・ヘレカントは、天井から降りてきて、木綿でつくられた網をクモのようにはいずり回った。昨年ニューヨーク・フィルハーモニックにより上演されたリゲティ《グラン・マカーブル》への出演で称賛された松風役のハンニガンは、狂気にとりつかれている間、全身を激しく動かしながら最高難度の旋律を歌った。
「正直に言うと、突っ立ったままより動きながら歌う方が楽なのよ」とハンニガンはリハーサルの合間に語った。彼女は昨年9月に、やはりサシャ・ヴァルツにより演出されたパスカル・デュサパンのオペラ《パッション》で、ダンサー・デビューしている。「呼吸や声のためにも、体のなかの響きやバランスのためにもいいのよ」とハンニガンは付け加えた。「難しくはないけれども、普段と違うのは生傷が絶えないことね。」
サシャ・ヴァルツによる《松風》の振付は、能の決まり事に盲従することなくその特徴をとらえている。近代的なダンスの文脈の範囲内で日本の能舞台のゆっくりとした動きを再現しているのだ。細川によると、オペラ《松風》は伝統的な能の固陋さや窮屈な伝統主義を排除したという。
「私は能というものをまったく新たに創造したかったのです。今日我々が目にする能はたしかに少々退屈です。能はあまりにも長い年月何も変わることなく演じ続けられており、博物館の展示物のようなものになってしまっているのです」と細川は言う。オペラ《松風》ではゆっくりと徐々に展開していく音楽に対してダンサーたちの鋭い動きが並置されるが、これはヴァルツの思慮深い判断によるものだ。「対位法的にやらなければいけないと思ったのです。というのも、私は観客たちを納得させたかった。旅の僧が静かに巡礼の旅について歌うオペラの冒頭部分は、聴き手を相当に疲労させてしまう可能性がありました。私は観客にもこの旅に一緒についてきて欲しかったのです」とヴァルツは国立歌劇場でのリハーサル終了後に語った。「海は静かにみえても常に動いていますし、自然も止まっているようでいて常に動いているのです」とヴァルツは言い添えた。
能とオペラを融合させたのは細川が最初ではない。20世紀に、ヨーロッパの何人かの作曲家が西洋的視点から能をオペラに翻案している。クルト・ワイルにより作曲されたブレヒトの《承諾者》では、能の台本を左翼的な教育劇に翻案した。ブリテンの《カーリュー・リバー》は教会寓話三部作の流れのなかで能の雰囲気を醸し出している。
「ブリテンのオペラのことは知っていましたがほとんど気にしませんでした。それはとてもヨーロッパ的だったからです」と細川は言う。「私は異国情緒的な音楽やオペラは作りたくありませんでした。本質的に新しいことが重要だったのです。」
細川の前二作のオペラ、能とシェークスピアを結びつけた《リアの物語》(1998)や三島由紀夫の『近代能楽集』にもとづく《班女》(2004)においても能は中心的な役割を果たしている。しかし、彼の音楽はまた日本の近代の歴史も扱っている。2001年に作曲された《ヒロシマ・声なき声》と2010年に作曲された《星のない夜》の2つのオラトリオはいずれも細川の故郷への原爆投下を記憶したものだ。
オペラ《松風》を締めくくる破壊はそれとは様子が異なる。オペラの終盤、吹きすさぶ嵐の中、何百という長い松葉が天から猛然と降り注ぐ。東日本大震災と福島の原発事故の数ヶ月前に、細川とヴァルツによって予感された黙示録としての自然のイメージだ。
「人間は自然に対する畏怖の念を忘れてしまっているようです。特に日本人は、かつては深く自然と共存して暮らしていました。しかし、自然との共存はもはやなくなってしまいました。このことも私のテーマなのです」と細川は語る。
私が細川と会う前日、日本の首相は原子力エネルギーへの依存からの脱却を表明した。少しずつ、社会が「前衛」に追いついてきているのだ。
ウィリアム・ロビン(ベルリン)