ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ逝去 86歳
Hans Werner Henze ©Schott Promotion/Peter Andersen
“Sehnsucht nach dem vollen, wilden Wohlklang”
“鮮やかな、豊饒の響きを求めて”
作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの死について
ハンス・ヴェルナー・ヘンツェの死をもって私たちは、この時代のもっとも重要で影響力のある作曲家の一人を失いました。長い音楽家としての人生の中で、彼の音楽的展望は留まるところを知りませんでした。40を超える舞台作品、10の交響曲、協奏曲、室内楽、オラトリオ、歌曲、そして9つの協奏曲で構成された《レクイエム》。彼の作品で特筆すべきは、時代を超えた美と現代的要素との融合に他なりません。ヘンツェはローマ郊外、アルバーニの古きよき風景の中に暮らすことを選びましたが、ここで彼は、多くの仕事に没頭し、パートナーであるファウスト・モローニとの50年もの時間を満喫し、研究と作曲のために世俗から距離を取ることで、彼自身の芸術と人生の調和を見出したのです。
彼はオペラ作曲家だったのでしょうか。それともしばしば表現されたように、最後の偉大なるシンフォニストだったのでしょうか。その長いキャリアの中でヘンツェは、器楽作品の分野を探求すると同時に、オペラの作曲にも身を投じました。この多才さが彼のあらゆる作品を豊かにし、自身の美的感覚を彼に気づかせたのです。かつて彼は、こうつぶやきました。「コンサートホールから劇場へ、そして劇場からコンサートホールへ。私の中で多くのものがさまよっている」。オーストリアの詩人インゲボルク・バッハマンとの素晴らしい共同作業である《公子ホムブルク》(1958-59)、《若き貴族》(1964)に加え、《若い恋人たちの悲歌》(1959-61)や《バッカスの巫女》(1964-65)といったこれらの舞台作品は、彼の作曲活動における頂点です。
ドイツにおけるファシズム体制下で過ごした幼少時代や、後の捕虜としての体験は、ヘンツェに強い影響を与えましたが、キューバ革命や、1968年に世界各国で起きた政治的動乱への関わりの中でヘンツェは、新しい音楽言語を使って、これらの時代の政治的な事件について深く考えることを決心します。ハンブルクにおける、オラトリオ《メデューサの筏》(1968)初演時におきた壮絶な混乱は、当時最大の音楽的スキャンダルとなりました。彼の政治運動への信念は、作家エドワード・ボンドがリブレットを書いた《われわれは川に来た》(1974-76)という、舞台における究極の音楽表現に見ることができます。アンナ・ゼーゲルスの小説『七番目の十字架』に基づいて書かれた、合唱を伴う7楽章《交響曲第9番》(1995-97)は、ファシズムと戦争に抗議する記念碑となりました。
「(交響曲は)第9番が限界のようだ」と言ったのは、アルノルト・シェーンベルクでしたが、ヘンツェは「このロマンティックな迷信を覆すために」《交響曲第10番》を書いたと述べています。この作品では、若々しい音色が、厳しい雰囲気を醸し出す暗い和音によって強調され、活気ある音色の豊富さと、熟練した薄気味悪さによって誇張されています。そして聴き手は最後に、哀愁を帯びたデクレシェンドという、謎めいたフレーズで取り残されてしまうのです。「こうして私は交響曲への貢献を終える」。ヘンツェはこう書き残しました。
オペラティックな声の表現とその叙情的な強さへの、ヘンツェの絶えることのない愛は、唯一彼自身のリブレットによるオペラ《ヤツガシラと息子の愛の勝利》(2002)によって再び世に知られました。また一方で、彼が不屈の作家であり思想家であったことも、自伝『Wie 'Die Englische Katze' entstand』や、音楽と政治に関する思索や書簡を収録した『Bohemian Fifths』で示されています。ヘンツェは、この自身の言葉と音楽の鮮やかな結合を《6つのアラビアの歌》(1997-98)と《アリスタエウス》(1997-2003)で更に高めました。
ヘンツェは1976年にモンテプルチアーノ国際芸術祭を、1988年にミュンヘン・ビエンナーレを設立し、いずれも1994年まで芸術監督を務めました。更に自身で設立した、オーストリア・シュタイアーマルク州で開かれるドイチュランツベルク青少年音楽祭などにおいて、自身の膨大な経験を、若き作曲家、教師、音楽家そして愛好家たちに引き継いでいました。「作曲とは技術であり、あらゆる技術は経験によって磨かれる」。
揺るぎない勇気と信念だけでなく、「生きる喜び(=joie de vivre)」や、美と自然への愛をもって、ヘンツェの弛まぬ姿勢は、いくつもの私的困難や時代の危機にさらされてもなお、芸術的な大志の視野を見失わなかった一人の人間の姿を我々に示しています。彼にとって作曲とは、倫理的貢献、かつ私的表現でした。彼は書かなければなりませんでした。それは容赦ない自己規律でした。そして彼が苦しい時、作曲は彼が求める碇を下ろし、漆黒の闇から彼を救い上げたのです。ヘンツェはかつて、音楽とは「罪の真逆であり、救済という約束の土地である」と語りました。
私たちは彼の出版社として、約60年もの時を彼と共にする名誉を得ることができました。深い悲しみとともに、語り尽くすことのできない感謝の気持ちをもって、ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926年7年1日ギュータースロー ? 2012年10月27日ドレスデン)に、私どもは今日、永遠の別れを告げます。
(http://www.schott-music.com/news/archive/show,8049.html から翻訳)