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権代敦彦《桜の記憶》 世界初演レポート

2014年 2月 3日付

Rafailas Karpis, tenor

おとぎ話の世界のように 雪が音もなく降っている。
リトアニアには、人の心に、手のひらに、
雪が降る、雪が降る、雪が降る…

(第一幕「友情」から)


この冬は、100年ぶりの雪のない年明けだったという、リトアニア共和国第2の都市カウナス。ソヴィエト連邦崩壊のきっかけを作ったバルト三国のひとつとして、ポーランドとロシアのはざまに位置するこの国の古都で、権代敦彦初のオペラ《桜の記憶》(Sakur? prisiminimai)が、1月5日から7日にかけて世界初演されました。この作品は第二次世界大戦中のカウナスで、日本からの訓令に背きリトアニア国内のユダヤ人たちに「命のヴィザ」を発給したことで名高い外交官、杉原千畝(すぎはら・ちうね)を題材としたオペラです。

杉原がリトアニア日本領事館領事代理として、当時の首都であったカウナスに赴任したのは1939年から40年にかけてのごくわずかな期間でしたが、ここで彼は、日本の通過ヴィザを求めて集まった大量のユダヤ人難民に対して2000枚余りのヴィザを発給し、6000人とも言われる人々を救います。

この3幕のオペラは、しかしながら、単にこの杉原の英雄的行動を舞台上に再現しただけものではありません。杉原の生きた20世紀の過去と、われわれの生きている21世紀の現在との2つの時間軸が設定され、カウナス時代の「スギハラ」と、2013年の「少年」と「おじいさん」、そして、二つの時代をまたがった存在としての「桜の精」や様々な役割を与えられた混声合唱と児童合唱が、ある時は哲学的な対話で、ある時は比喩にあふれた詩的な言葉で、内省的、かつ幻想的な物語が紡がれています。

現在の「少年」と「おじいさん」の会話から始まる〈第一幕「友情」〉は、「スギハラ」のカウナス着任までを描いていますが、合唱がリトアニアに差し迫る戦争の影をほのめかしています。〈第二幕「戦争」〉では「スギハラ」のカウナス離任までとその後を扱っていながら、この物語の一つの山場でもあるべきヴィザ発給の場面の具体的描写はなく、日本の外交官であるのと同時に、一人の人間である「スギハラ」の心の揺れが、混声合唱と児童合唱を交えながら、彼と「桜の精」の対話を通して印象的に描かれています。〈第三幕「芽」〉では、一つの寓話が挿入されます。情が移った食用の鯉に懇願されながら、母に怒られることを恐れて逃がすことができない「少年」。一方で、任務と良心と間で思い悩んだ果てにヴィザ発給を決断した「スギハラ」。この結末の異なる2つの物語が重なり合います。両合唱の対話が続き、最後には現在の「桜の精」のモノローグでこのオペラは静かに幕を降ろします。

3日間全3回の公演はいずれも完売。観客の反応も上々で、連日最後はスタンディング・オベーションでした。初日となる5日は、在リトアニア大使の白石和子氏や、1991年の独立後、最初の国家元首をつとめた音楽学者ヴィータウタス・ランズベルギス氏らも臨席。華やかな世界初演となりました。また、楽日の7日の模様は、リトアニアの国営放送LTV KULT?RAでリトアニア全土に生中継されました。リトアニア国内での注目の高さがわかります。

会場となった国立カウナス・ドラマ・シアターはもともと演劇のための劇場で、楽器編成が大きいオーケストラを伴うオペラの上演は想定しておらず、比較的編成の小さなこの作品でも、オーケストラはどうにかピットに収まったようですが、児童合唱と混声合唱は2階客席の左右のブロックに分かれて配置されました。しかし、この空間的配置によって劇場全体が舞台と化すことで、オーディエンスも物語の渦中にまきこまれ、かえってよい効果をもたらしていました。

「スギハラ」はテノールのラファイーラス・カールピス、「桜の精」はメゾソプラノのヨヴィタ・ヴァシュケヴィチューテ、そして「おじいさん」はバスのヴラディミラス・プルドニコヴァス。いずれもリトアニア人ですが、この作品がオペラの主役デビューとなったカールピスは、祖父がドイツにあったダッハウ強制収容所から生還したユダヤ人の一人という奇縁に触発されたこともあってか、熱演。のびのびとした声で、実直な杉原の印象を丹念に描いたすばらしい演奏でした。ヴァシュケヴィチューテ、プルドニコヴァスとも、リトアニアのヴェテラン歌手で、存在感あふれる歌唱でした。なおプルドニコヴァスは、リトアニアの文化大臣もつとめたという政治家としての顔も持っています。日本からの唯一の演奏家である箏の西陽子は、「桜の精」の分身として舞台に登場。大変美しい演奏で聴衆を魅了しました。

オーケストラは、カウナス市交響楽団。指揮は、これまでリトアニア国立交響楽団やリトアニア室内管弦楽団と共演している西本智実。クリスマス休暇を挟んだ短期間のリハーサルで、この難曲を見事にこなしました。

日中、カウナス市街を散策していると、あちらこちらで「桜の記憶」と日本語で書かれたポスターを目にしました。劇場正面の4本の柱には「桜」「の」「記」「憶」の特大の文字。世界初演の成功を噛み締めつつ、楽日の翌日リトアニアを後にしました。


(2014年1月31日 榑谷学)