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ペーテル・エトヴェシュ逝去

2024年 3月 30日付

Peter Eötvös

photo © Marco Borggreve

現代ハンガリー音楽界を代表する作曲家ペーテル・エトヴェシュが、3月24日、ブダペストで亡くなりました。

世界の主要なオーケストラや歌劇場に指揮者としてたびたび登壇し、指揮活動においても、作曲家としても、同時代の音楽を第一線で牽引してきました。

日本においても、彼の作品は、NHK交響楽団や読売日本交響楽団など、主要なオーケストラでしばしば取り上げられてきました。2014年には東京オペラシティの「コンポージアム」特集作曲家・武満徹作曲賞審査員として来日し、本人の指揮により《スピーキング・ドラム》など3作品が日本初演されました。2019年には、日本・ハンガリー国交樹立150周年を記念した公演において、メロドラマ《くちづけ》(日本初演)や《Harakiri》が、エトヴェシュ立ち合いのもと、上演されました。

近年では、ペーテル・エトヴェシュ現代音楽財団を設立し、後進の育成にも熱心に取り組んでいました。

ペーテル・エトヴェシュ氏のご冥福を心よりお祈りします。

私は作品が他のどの作品とも似ていることを望まない。

作曲家・指揮者のペーテル・エトヴェシュが、2024年3月24日にブダペストで亡くなった。80歳だった。同日にエトヴェシュの遺族が発表した。彼の死により、音楽界は現代で最も頻繁に演奏されるオペラ作曲家の一人を失った。

個人はあらゆる形の文化によって形づくられる。世界が自分を通り抜けるのを受け入れて、そして何かがふるいにかけられたように自分の中に留まっていることを、人生の終わりに感じたなら幸せだ(ペーテル・エトヴェシュ)(1)

ペーテル・エトヴェシュは戦時中の1944年1月2日にトランシルヴァニアで生まれたが、1年足らずで迫り来るソ連軍から逃れるために一家は西側への逃亡を余儀なくされた。幼くしての移住にもかかわらず、エトヴェシュはトランシルヴァニアの古い文化的景観を自分の真の原点として定義することを好んだ。特に音楽の観点では、私は本当にそこに属していると感じます。(中略)私たちの遺伝子には、この地域のコスモポリタニズムとその根底にある多文化的雰囲気が組み込まれているに違いありません。この地域にはさまざまな異なる民族が共存し、それぞれの文化がお互いを豊かにしてきたのです。(2) 第一次世界大戦後、かつてのハンガリー地域はルーマニアに編入されたが、エトヴェシュや少し上の世代であるジェルジ・リゲティなどの作曲家たちは常に、ハンガリー人としてのアイデンティティの拠り所として、また同時に、究極的にはハンガリーのナショナリズムが繰り返し復活することへのアンチテーゼとしての、一般的なコスモポリタニズムの象徴として、「トランシルヴァニア Siebenbürgen」を捉えてきた。

個人はあらゆる形の文化によって形づくられるとエトヴェシュは語っているが、同時に、彼がほぼすべての作品で文化的多様性への関心を広げているように、人は何か試みる時に広い視野と喜びを保っているべきだ。1970年の大阪万博でシュトックハウゼン・アンサンブルと共演した際、彼は日本文化に触れ、様式化や儀式化の瞬間、あるいは身振りやフレーズの正確さという点においてのみならず、例えば小説家、劇作家・三島由紀夫の壮絶な切腹死を題材にした最初のオペラ《Harakiri》や、11世紀の『更科日記』を題材にした2つの音楽劇作品など、内容においても日本文化は彼の音楽に影響を与えた。チェーホフを題材にしたオペラ《三人姉妹 Tri Sestri》ではロシア文化にどっぷりと浸かり、打楽器協奏曲《スピーキング・ドラム Speaking Drums》ではインドとアフリカの打楽器の伝統に着想を得た。バスク国立管弦楽団の委嘱に応えて作曲した管弦楽曲《鷲は音もなく大空を舞い The Gliding of the Eagle in the Skies》でバスク文化の研究に着手し、ヴァイオリニスト、イザベル・ファウストのために作曲した《ヴァイオリン協奏曲第3番「アルハンブラ Alhambra」》はスペインとアラブの音楽を想起させる。他にも彼のジャズへの熱意(トランペット協奏曲《ジェット・ストリーム Jet Stream》に代表される)や、ジャン・ジュネの戯曲に基づくオペラ《ル・バルコン Le Balcon》の性格を特徴づけたフランスのシャンソンに対する感傷的な嗜好は、エトヴェシュの作品に染み渡る文化の例として挙げることができるだろう。

エトヴェシュは、彼の作品へのこのような影響にも関わらず、とりわけハンガリー語が孤立しているために祖国の文化がヨーロッパの文脈の中である種の独自性を獲得しているという認識において、基本的にはハンガリーの作曲家であると自認している。彼の最初のテープのための作品である《Mese(おとぎ話)》は99のハンガリー民話の要素を取り入れており、ピアノ協奏曲《CAP-KO》(2005)、そして、この作品の異なるヴァージョンとして作曲された室内アンサンブルのための《Sonata per sei》やピアノ二重奏のための協奏曲《2台ピアノのための協奏曲 Concerto for two pianos》を含む後の作品は、エトヴェシュがその調性的宇宙を自身の「音楽の母国語」と呼ぶベーラ・バルトークへの直接的なオマージュである。1995年の大規模な管弦楽作品《アトランティス Atlantis》に登場するトランシルヴァニア発祥の舞曲は、失われた文化の象徴であり、エトヴェシュはそれを新たな希望と結びつけている。興味深いことに、彼の13のオペラのうち、最も新しい悲観的な悲喜劇《ヴァルシュカ Valuska》(2023)は、ハンガリー語の台本を使用した最初の作品であるが、それ以前の2つの作品、《悪魔の悲劇 Die Tragödie des Teufels》(原作 イムレ・マダーチ)と《ハレルヤ―オラトリウム・バルブルム Halleluja - Oratorium balbulum》(原作 ペーテル・エステルハージ)は、ハンガリー語の原作に基づいている。《ヴァルシュカ》を除いて、他のすべての上演作品の台本は他の言語に翻訳されている。

ハンガリーの孤立は、若きエトヴェシュにも政治的な影響を与えた。両親の離婚後、エトヴェシュはハンガリー北部のミシュコルツで母親とともに育ち、早熟な音楽的才能を買われて14歳でゾルターン・コダーイに認められ、ブダペスト音楽院で学んだ。この時期、共産主義当局によってスクランブルされた短波放送で西洋の現代音楽やジャズに出会うが、禁断の果実の魅力は新しい経験への欲求を高めるばかりだった。エトヴェシュは、1965年に初めてダルムシュタット夏期現代音楽講習会に参加し、1年後にはドイツの奨学金を得て、ケルンでベルント・アロイス・ツィンマーマンに師事した。また、ケルン・オペラでコレペティトゥアとして働き、その後、シュトックハウゼン・アンサンブルに鍵盤奏者として参加し、さらに西ドイツ放送局(WDR)の電子スタジオで技術アシスタントを務めた。その後、1998年、マウリシオ・カーゲルの後任としてケルン音楽大学の作曲科教授に就任。シュトックハウゼンの周辺に集まっていた多くの作曲家たちが共有していたエレクトロニクスに支配された音楽というヴィジョンは、もちろん彼らが想定していた先鋭性の中で実際に実現することはなかったが、電子的なプロセスや入力方法を取り入れるという点だけでなく、その特徴的なサウンドも、エトヴェシュの後の作品に影響を与えた。

しかし当初、「作曲家」としてのエトヴェシュは「指揮者」としての彼の背後に隠れてしまっていた。エトヴェシュは、パリのアンサンブル・アンテルコンタンポラン(1978~1991年)、ヒルフェルスム放送室内オーケストラ(オランダ)の音楽監督、ロンドン、ブダペスト、バーデン=バーデン/フライブルク、イェーテボリのオーケストラの常任客演指揮者として、現代音楽のリハーサルに伴う困難やリハーサルの組み立てを制御する方法を学び、それによって、指揮台の上で信頼を得る時にも、また技術的に実現可能な音楽的理想像を自身のスコアに落とし込むときにも、音楽家とのコミュニケーションに対する確かな感覚を身につけた。エトヴェシュが思い描くように想像力、職人技、ディシプリンの精神から音楽が誕生することを理解するため、世界各地で行われた彼のマスタークラスの抜粋映像を見るのはとても興味深い。

指揮者として、また「役人」としてのキャリアで、多くは作曲できなかった恩師ブーレーズとは異なり、エトヴェシュは、47歳でアンサンブル・アンテルコンタンポランを去った後、現代音楽の分野でいまだに比類のない作曲活動に身を投じた。ブダペストを拠点としながら、すでに映画や演劇のための音楽を書いていた彼は、劇場への情熱を一連の大規模なオペラ・プロジェクトに注ぎ込んだ。初期の頃と同様に、妻のマリ・メゼイは、演劇のアドバイザーとして、また多くの彼のオペラの台本作家として、重要な芸術的パートナーであり続けた。これらのオペラは主に、ガブリエル・ガルシア=マルケス(《愛その他の悪霊について Love and Other Demons》)、トニー・クシュナー(《エンジェルス・イン・アメリカ Angels in America》)、アルベルト・オステルマイアー(《パラダイス・リローデッド[リリス] Paradise reloaded [Lilith]》)、ローラント・シンメルプフェニヒ(《金色の龍 Der goldene Drache》)、アレッサンドロ・バリッコ(《無血 Senza sangue》)、ヨン・フォッセ(《スリープレス Sleepless》)、ラースロー・クラスナホルカイ(《ヴァリュシュカ》)といった、存命中の作家の作品に基づいている。これらの作品の作曲において、エトヴェシュは反復不可能性の原則にこだわった。それらは意図して異なっており、私もそうです。私は作品が他のどの作品とも似ていることを望んでいません。作品は個々の内容を持っていなければなりません。それぞれのオペラは、独自の言語、独自の宇宙、独自の文体の音楽的言語を持っていなければなりません。(3)

1990年代半ば以降、オペラはエトヴェシュ作品がもつ魅力の核をなすものとなったが、一方で室内楽曲、アンサンブル作品、ソロ協奏曲、管弦楽曲なども多くの作品が書かれている。そうした作品の中には彼の舞台作品に直接関係するものもあるが、多くはまったく異なる芸術的想像力の領域から着想を得ている。作品は、ユーリイ・ガガーリンによる初の有人宇宙飛行(《コスモス Kosmos》)や2003年のスペースシャトル・コロンビア墜落事故(ヴァイオリン協奏曲第1番《セブン Seven》)といった出来事に影響を受けたり、カジミール・マレーヴィチの絵画についての観想(《マレーヴィチを読む Reading Malevitch》)、アラスカのオーロラ(北極光)(《オーロラ Aurora》)や、ハンガリーのピアニスト、ジョルジュ・シフラの姿(ピアノ協奏曲《Cziffra Psodia》)、セイレーンの神話的歌(《セイレーン・サイクル The Sirens Cycle》)に刺激されることもあれば、地中海で溺死した無数の難民に捧げられた2016年の交響曲《名も無き犠牲者へ Alle vittime senza nome》のように政治的告発の形をとることもある。エトヴェシュにとって、多様性は必要不可欠なものである。私は、これらすべての出来事が起こった時代に生きていますと彼は語り、出来事の同時性から多様な音楽スタイルが平等であることの美学的正当性を立証する。私は自分自身を連続体として定義し、自身を音楽史の一要素と感じている。(中略)私はアヴァンギャルドが大好きで、マイルス・デイヴィス(の音楽)を愛するのと同じくらいアジアの音楽を愛している。(4)

エトヴェシュは30年にわたり、ケルン、パリ、ヒルフェルスムで暮らした。2004年、ハンガリーがEUに加盟した年にブダペストに戻り、同年、私立のペーテル・エトヴェシュ現代音楽財団を設立した。エトヴェシュは芸術家として世界市民であり続けたが、この移転は彼にとって大きな意味を持つ文化的故郷への意図した地理的取り組みを象徴的に示した。

Michael Struck-Schloen
注釈
Peter Eötvös (1944 - 2024) (schott-music.com)より翻訳)
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